中城城跡は、沖縄本島の中城村と北中城村に位置する14世紀半ばごろに築城された城です。山城で攻めにくく守りにくいうえ、その城門はアーチ状をしており、幕末に日本に開国を迫ったペリー提督が帰路に琉球に立ち寄った際に見物し感動させたほどです。15世紀に入り、琉球王国の臣である護佐丸が勝連城主阿麻和利の侵攻に備えて、勝連半島の根元に位置するこの城の城主として赴任してきました。彼は軍の鍛錬とともに中城城を改築します。しかし、阿麻和利の讒言に乗せられた当時の琉球国王尚泰久により謀反の疑いがかけられ、さらに泰久王の命を受けた阿麻和利率いる国軍に攻められます。この際に、護佐丸は国王の軍と刃を交えるわけにはいかないということで戦わずして自害します。
護佐丸の死から20年ほどたって琉球王室の王子の居城として活用されるようになりました。
その後、明治時代に入り琉球王国が琉球処分により沖縄県になったころに城内の一室を借りて学校が運営され、さらに一角を用いて村役場が設けられました。こうして、城とは別の用途で中城一帯の中心地になっていきましたが、太平洋戦争末期の1945年に戦火で役場は焼失します。のちに別の場所に役場が復旧したために城内は無人の状態になりました。
その後、アメリカの統治下や返還以後に重要な文化財として位置づけられ、2000年には「琉球王国のグスクおよび関連遺跡群」の1つとして世界遺産に指定されました。